NHKの連続テレビ小説第110作目として放送されている「虎に翼」は、日本法曹界における女性パイオニア三淵嘉子さんをモデルにした物語です。
この記事は、三淵嘉子(みぶち・よしこ)さんについて学ぶことができます。
日本初の女性弁護士と判事
三淵嘉子が生きた時代
三淵嘉子は1914年11月13日にシンガポールで生まれました。彼女が生きた時代は、第一次世界大戦から第二次世界大戦後にかけての時期です。この時期は、男女平等が宣言され、女性がさまざまな分野に進出していく時代でした。
三淵嘉子の生涯と主な出来事
- 法学の道への志: 三淵嘉子は進歩的な父の影響を受け、法律を学ぶことを決意しました。明治大学専門部女子部法科に入学し、その後明治大学法学部に進学しました。
- 日本初の女性弁護士: 1940年に第二東京弁護士会に弁護士登録し、中田正子さんや久米愛さんと共に日本初の女性弁護士となりました。
- 判事としてのキャリア: 三淵嘉子は判事としても活躍し、名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。彼女は広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当し、日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言しました。
- 家庭裁判所所長: 三淵嘉子は女性として初の家庭裁判所所長に就任しました。
三淵嘉子の家族構成
- 父親:武藤貞雄
- 武藤ノブさんと結婚し、三淵家に婿入り。
- 台湾銀行に勤務し、シンガポールやニューヨークで勤務経験あり。
- 母親:武藤ノブ
- 女性は結婚して家庭を守るべきと考えていた。
- 三淵嘉子さんが弁護士を目指す際に猛反対した。
- 元夫:和田芳夫
- 三淵嘉子さんの最初の結婚相手。
- 戦病死し、三淵嘉子さんは1人で子供を育てました。
- 夫:三淵乾太郎
- 裁判官であり、三淵嘉子さんと再婚。
- 初代最高裁長官の三淵忠彦さんの息子。
- 子供
- 和田芳夫さんとの息子:生物学者の和田芳武さん。
- 三淵乾太郎さんの連れ子:那珂さん(長女)、奈津さん(次女)、麻都さん(三女)、力さん(長男)。
三淵嘉子の晩年について
裁判官を退官→弁護士として復帰
三淵嘉子さんは、1979年に裁判官を退官されました。しかし、翌年の1980年からは再び弁護士として活動を開始し、1984年に癌のため69歳で亡くなるまで、一生を法曹界と人々を助ける仕事に捧げられました。 退官後も彼女の情熱と貢献は続き、日本婦人法律家協会の会長や労働省男女平等問題専門家会議の座長を務められました。
参考文献
『裁判官 三淵嘉子の生涯』(潮文庫)
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『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた‘’トラママ‘’』
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